伊予松山藩について

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【拡大表示】松山城松山藩は江戸時代、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを領有した藩です。藩庁は松山城になります。


松山藩の功績

松山藩が横浜の礎を築いた【神奈川台場】

【拡大表示】神奈川台場萬翠荘1階広間には2点の壁画が飾られています。(『三坂峠』、『神奈川台場の図』)この壁画は、定謨伯爵が松山市出身の画家・八木彩霞(当時横浜元街小学校教師)に依頼し、当時神奈川台場の歴史を調査・研究していた彩霞はこれを快諾し、制作したと言われています。

『神奈川台場』は、19世紀に入り西欧諸国の黒船が日本沿岸に頻繁に姿を見せるようになったことを受け、幕府が築造を命じた台場(砲台)のひとつです。松山藩が幕府から築造を命じられ、万延元年(1860年)に藩財政1年分にあたる7万両と、延べ30万の人員を投入しわずか1年で完成させました。設計は西洋通の勝海舟に一任したと言われています。

この台場は軍事施設でありましたが、明治以降は諸外国の外交団が来日した際や、国王・大統領の誕生日などに儀礼として祝砲を発射する施設として利用され、国際都市横浜の発展を支える重要な役割を果たしてきたと言えます。
明治32年(1899年)に台場は廃止され、大正10年(1921年)頃より徐々に埋め立てられ、現在ではJR東高島貨物駅構内にごくわずかに石垣を残すのみとなり、かつての景観はありませんが、現在の横浜市はこの台場が基礎となっており、貴重な史跡となっています。

このような背景のもとこの壁画が描かれ、大正11年11月、裕仁親王を萬翠荘に迎えた定謨伯爵は、横浜発展の歴史と壁画の由来を詳しく説明されたとのことです。

(横浜開港資料館ホームページより引用)

【拡大表示】神奈川新聞【拡大表示】横浜開港資料館 入場券

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