大正11年に別荘として萬翠荘を建設した久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵は、日本の陸軍軍人、華族です。伊予松山藩主である久松家の当主で、歩兵第1旅団長・歩兵第5旅団長を歴任し、階級は陸軍中将正二位勲一等伯爵に至りました。妻の貞子は島津忠義公爵(薩摩藩・第12代藩主)の娘です。
久松定謨の功績
学問を基礎とする近代化への貢献【東京都中央区立久松小学校と常盤学舎】
東京都中央区立久松小学校は、明治6年3月、日本橋久松町に「第一大学区第一中学区第二番小学」として設立され、現在に至っています。
その校名の由来については同校校友会の方々もこれまで解明を試みていたようですが、「町名からきており、久松家と特別の関連がある訳ではない。」との説が有力でした。しかしその後の調査の中で、平成五年に当時校友会会長である渡邊氏により『東京府志料』に、「久松学校 明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」との表記が発見され、考証が重ねられた結果、史実として認識が改められました。
明治維新後の財政難から、初等教育成立時期には華族の援助が大きかったようで、久松家からの寄付一金千圓(現在の貨幣価値では数千万円)を筆頭として学校が設立されたとの事実が明らかとなりました。
久松小学校と久松家の関係について
また、同時期久松家は、日本橋浜町の「お長屋」を寮として開放し、学生の事情によっては学資を給付していました。その後明治16年7月、久松家の出資により創立された常盤会の第一期生として正岡子規が入寮していました。
このように久松家は人材育成に力を尽くした様子が伺え、定謨本人もフランス・サンシール陸軍士官学校へ留学するなど、この時代の開明の空気を吸っています。
(このとき、家臣の家柄にあたる秋山好古を同行、騎兵戦術の習得により、後に日本陸軍騎兵の父と言われるようになりました。)
(中央区立久松小学校校友会だよりより引用)